一身独立

多動性を発揮し、「21世紀の百姓」を目指す27歳元エリートのブログ。

どうすれば気候変動に関心を持つ人が増えるか。


気候変動が、関心を持ちにくい性質を持っているのは間違いない。その理由は2点指摘出来る。

1点目は、原体験を持つのが難しい点にある。原体験とは、関心を抱くきっかけとなった経験である。特に武力紛争や貧困などの開発アジェンダと比べた場合、被害者の声を聴くのが難しい。確かに干ばつや、気象の極端化を気候変動の責任にすることは出来る。しかし季節外れの台風・サイクロン・ハリケーンといった一つの異常気象と、気候変動との因果関係は、現代の科学では立証出来ない。気候変動はあくまで長期の気象パターンを変更するものであり、一つの台風が気候変動の結果、勢力を増したとは言えないのである。

そう考えると、気候変動は現象というより、情報として理解することが出来るのではないか。IPCCや研究者が結論付けた科学的エヴィデンスが、危機を煽る根拠とされ、被害を受けている人々のパーソナル・ヒストリィが語られる場面は稀である。
情報であるからこそ、そのエヴィデンスの真偽を疑う懐疑論者も出てくるのである。武力紛争に傷ついた人や、エイズ孤児、貧困に喘ぐ人は現に存在するため、問題を否定しようがない。しかし気候変動の業界では、現象そのものを否定する言説がまかり通っている。その要因には、気候変動が情報としてしか知ることが出来ないという構造がある。

一つ解決策があるとすれば、地球というシンボルに触れる機会を増やすことにある。現状でも、地球の写真や世界地図を見れば、おのずと世界全体の人類同胞を意識することになる。さらに宇宙旅行がより身近になれば、ますます国境線のない地球を外から見る人が増える。その時、コスモポリタン地球市民主義者)として地球環境を保全しようと考える人が増えるのではないだろうか。

2点目は気候変動に伴う気温上昇が「徐々に起こる」という性質にある。他の開発アジェンダでは、人が死ぬか死なないか、傷つくか傷つかないか、という異論の余地のない善悪の基準が存在する。しかし気候変動のように徐々に起こる変化においては、どこからどこまでの被害が許容範囲内なのかは、必ずしも自明ではない。従って費用のかかる対策をどこまで行うかを巡って、論争が起きることになる。

現在世界は、「パリ協定」に従って「産業革命前と比べた世界の平均気温上昇を、2度以内に抑える」という目標に向かって動き出している。しかしこの「2度以内」という目標ですら、十分でないと訴える国や研究者も出てきている。「パリ協定」は結局、上記の論争を決着させることは出来なかったのである。

特に環境NPOや、気候変動に被害に脆弱な国家は、「(産業革命前と比べて世界の平均気温上昇を)1.5度以内(に抑える)」という目標の履行を求めている。この目標の達成のためには、現在の二酸化炭素排出量を約5年しか続けることは出来ず、劇的な政策変更が求められる。

これはそもそも論だが、地球環境のような公共財を保護するためには、共感を育てる以外にも手はある。罰則やコストを課すのである。禁煙が条例化されるようになったように、またゴミ袋が有料化したように、負の外部性をもたらす行動には、罰則やコストを課す必要がある。

現状42基もの新規石炭火力発電所建設計画がある日本では、二酸化炭素排出のコストが十分に排出者に課されているとはとても言えない。国の政策が遅れているので、地方自治体が炭素税を課す条例をつくってもよいのではないか、と思う時さえあるくらいだ。

自然エネルギー財団」がまた今年も、石炭に関する報告書を出したので、また読んで紹介したい。


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