一身独立

多動性を発揮し、「21世紀の百姓」を目指す27歳元エリートのブログ。

「国際協力」と個人としてのグローバルな義務


私が働いている「コンフロントワールド」は、場合によって「国際協力団体」という枕言葉をつけている。確かに国際協力を行ってはいるのだが、私はこの「国際協力」という言葉があまりしっくりきていない。

そもそも国際協力というのなら、先進国の人と先進国の人の協力も国際協力と呼ばれて然るべきである。しかし現状そうなっていない。その要因には国際協力という言葉が使われだした経緯にある。

私の理解では、国際協力という言葉は「援助(aidもしくはassistance)」の政治的正当(polically correct)な表現として使われだした。援助という言葉が含む主従のニュアンスを少しでも薄めようと、国際協力という言葉が使われるようになった。

私の中では国際協力よりも「国際社会保障」や「国際社会福祉」の方がしっくりくる。現状の世界では、日本人が納税の義務を通じて社会保障として日本に住む貧困層を助ける「義務」がある。しかし日本人に南スーダン難民を助ける義務はない。

現在の世界は国境を越える正義や義務について、あまりにも無関心である。というより、忌避感があるといった方が正しいだろうか。グローバル貧困層の生活を改善するという行為は、やりたい人がやれば良いと受け止めている人が多数だろう。「世界人権宣言」が採択され、「日本国憲法」が様々な自由を謳っている。しかし憲法が認める自由は日本人や日本に住む人々のみが享受すれば良く、国境の外の人々には関心が払われていない。一部の研究者は、そのような現状に異を唱えているし、私も一人のコスモポリタン地球市民主義者)として、そのような現状を憂いつつ、変えていきたいと考えている。

現状、援助は義務ではなく慈善として理解されている。ODAも各国が自発的に行うものとして理解されている。
対して、国境を越える義務を主張する研究者の一人であるピーター・シンガーは、困っている人を大きな犠牲を払わずに助けられるのに、助けないことを罪だと主張している。もっと踏みこんで言えば、既にブランドものの服を大量に保有している人が新たにブランドものの服を購入するような行為は、その費用を寄付にまわすことが出来るのにそれをしない不作為を侵しているという意味で義務に違反する罪なのだ、と彼は主張している。

私自身も、先進国の人々の生活の積み重ねがめぐりめぐって途上国の貧困層を苦しめている現状を変えたいと思う。そして先進国の人々と、途上国の人々の間に権利・義務関係を構築したいという欲望にかられることはある。

しかしシンガーの提案は、ある意味でナイーヴであり反発も予想される。個人が自発的に苦しんでいる人々を助けることは、ほとんど異論なく称賛されるだろう。しかし助けることが義務として強制された場合の人々の反応は、一様にはならないのではないだろうか。

貧困の倫理学 (平凡社新書)

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