一身独立

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【ディスカッション・ペーパー】「原子力発電所をめぐる社会選択の問題点とその解決策」


(金子, 2007,pp234-235)において、登場人物の一人である「判事」は、社会制度を選択する手段として社会正義を捉えている。社会制度は価値中立化される必要があり、恣意的な価値観が反映されるものになってはならないと考えているのである。本記事では原子力発電所をめぐる社会選択についての問題点を考察し、その解決策を模索したい。

2015年12月24日、検査中の高浜原子力発電所3, 4号機の再稼働をめぐり、福井地方裁判所は実質再稼働を認める決定を下した。このニュースの中で立地自治体である高浜町の住民は「事故が起きる可能性が万が一でもあるのなら、原発は動かすべきではない」(注1)と語ったという。原子力発電所において何らかのトラブルが起きた場合に、真っ先に被害を受ける地元住民が抱く感情としては、至極真っ当なものかもしれない。

しかしあえてこの発言の問題点を挙げるとすれば、確率の無視である。原子力発電所で事故が起きる確率について、広範な一致を得られる数値を弾き出すのは難しい。原子力発電所が事故を起こすか否かの確率は、容易に大数の法則を使って帰納的に求めることは難しいためだ。しかし強い「予防原則」を適用して、人命・環境への甚大な被害の「可能性が万が一でもある」のなら、その技術の社会への適用を禁止すべきという意見には簡単には賛成できない。その論理が有効ならば、例えば「自動車事故に『可能性が万が一でもある』ために、自動車の運転を禁止すべき」という命題も有効となってしまう。現代社会は自動車利用によって得られる便益とリスクのバランスを考慮して、自動車を受け入れ利用している。同様に原子力発電所も利用によって得られる便益とリスクのバランスを考慮して、これから利用していくかを決定していかなければならない。


一方で仮に原子力発電所を利用する便益がコストを上回り、多数決によって原子力発電所の利用を継続していくことが支持されたとしても、問題が全て解決されたわけではない。多数決による意思決定は少数派から多数派への資源の「政治的な再分配(須賀, 2014, pp31)」をもたらす可能性がある。多数決によって少数派に不利な意思決定が行われる恐れがあるのである。この点は(金子, 2014, pp229)においても指摘されている。

「民主主義」には多数決による社会的意思決定と基本的人権の尊重という部分 があります。実はこれらには互いに矛盾する部分がある。(中略)

では、多数決決定に対しての基本的人権という制約を取り除き、すべてを多数決で決定できるとしてみましょう。この場合、九九%の多数派によって一%の人間達を抹殺することができる。


これはいわゆる「多数派の専制(tyranny of majority)」の問題である。多数決の乱用や多数決によって選ばれた代表者によって、少数派の基本的人権が侵害される恐れが出てくるのである。

もともと原子力発電所開発をめぐる政治には、「拡散した利益と集中したコスト」という構造がある。原子力発電所によって発電した電気を利用するのは一人一人の利用者であり、一人が得る便益とコストは極めて少ない。一方原子力発電所において過酷事故が起きた場合に、立地自治体の住民が被るコストは極めて大きい(注2)。


(武田, 2011, pp166)は、「電源三法」「原子力損害賠償法」および原子力委員会の資料を分析し、こう結論づけている。

原子力発電所の運転継続を国が望む場合、その地域は過疎であり続けなければ ならないことにもなる。そうでないと立地指針によれば原発立地には相応しくな くなる。逆に言えば過疎化を前提とせずには、事故の際に現実的な範囲で賠償可能の域に留めることは出来ない。これが原子力損害賠償法の裏側にあるリアリズムだった。

となると電源三法交付金は地域振興を本当に目的にすることは出来ない。では、それは何を目的としていたのかということになる。電源三法交付金は永遠に過疎の運命を強いる事への迷惑料、慰謝料的な性格が実は強かった。


こうした構造は必ずしも全ての立地自治体に当てはまったわけではない。新潟県巻町(武田, 2011, pp66-83)や和歌山県日高村(かさこ, 2013)など、原子力発電所開発計画が持ち上がりながら、住民の反対運動によって頓挫した事例もある。現在も中国電力による上関原子力発電所開発計画に対し、祝島の住民は反対運動を続けている。しかしこうした構造は都会を中心とする利用者の、原子力発電所のコストへの無関心を生み、安全神話の形成の一因となった。

こういった点を問題視し、原子力発電所の運用を継続するか否を「国民投票」に付すべきだという意見もある。日本では一度も国民投票が行われたことはないが、イタリアなど欧州の一部の国では原子力発電所の運用の是非を国民投票で問うた実績がある。


国民投票の利点は、二点ある。一点目は、イシュー(issue)が明確であることである。一般的な選挙の場合、比例代表制なら政党に、中小選挙区制なら立候補者に投票する。その場合投票する際に重視した理由やイシューは有権者によって異なる。有権者Aは教育問題を重視して投票先を決定するかもしれないし、有権者Bは外交問題を重視して投票先を決定するかもしれない。このために争点化しなかったイシューを重視して投票した有権者には不満が残ることになる。それに対し、国民投票では扱われるイシューが明確であることは自明である。

二点目は質問が「はい」か「いいえ」のいずれかに収れんし、死票が発生しない点にある。従来の中小選挙区制度では、得票数が三番目以下の候補への票は死票になっていた。その点国民投票では、死票が生まれる可能性はなく、より一人一人の意見が通りやすい制度となっている。
(今井, 2011, pp115)が提案する国民投票の設問は以下の通りだ。


①現在ある原子力発電所について、これをどうすべきだと考えますか?
   運転、稼働を認める
   段階的に閉鎖していき、二○二二年までにすべて閉鎖する
原子力発電所の新規建設についてどう考えますか?
   認める


   認めない


このようなシンプルかつ具体的な問いであれば、国民も考えやすく議論が盛り上がるのではないだろうか。国民全員が一票を投じられる制度である国民投票ならば、多数派の専制において懸念される有権者の不満も、ある程度は払拭できるだろう。


注1 朝日新聞2015年12月25日付け朝刊39面
注2 福島第一原子力発電所の事故による直接の死者は出ていない。しかし生業を奪われた酪農家の自殺などの例はある。最終アクセス日2015年12月25日 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120102000254.html

【参考文献】
今井一(2011)『「原発国民投票集英社新書
金子守(2007)『――地界で考える――社会正義』勁草書房
須賀晃一編(2014)『公共経済学講義――理論から政策へ』有菱閣
武田徹(2011)『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレ

【参考映像作品】
かさこ(2013)『シロウオ』シロウオ上映委員会
鎌中ひとみ(2010)『ミツバチの羽音と地球の回転』株式会社グループ現代

図1:相矛盾する民主主義の性質
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「原発」国民投票 (集英社新書)

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