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エネルギーで一身独立

自由・自立・自律と、エネルギー問題を中心にサステナビリティに関する有益な情報を提供するための記事を書いています。

【映画評】『イエロー・ケーキ——クリーンなエネルギーという嘘——』

原子力発電 映画評 民主主義

この作品は、日本では注目されることの稀なウラン採掘現場の実態を抉ったドキュメンタリィだ。
旧東ドイツ・オーストラリア・ナミビア・カナダへの現地取材・企業取材を通して、ウランを巡る情報・経済・公正について迫っている。
知らないことばかりで目を見開かされる思いだった。
特にカナダ・ウラニウム市には、鉄腕アトム同様、原子力への夢を帯びた期待感が感じられた。そして、その後の市の衰退との対比が悲しかった。


一貫性のある運動・議論が必要

見終わって最初に感じたことは、原子力発電を巡るエネルギー政策を検討する際に、燃料のサプライ・チェーン(流通過程)全体に目配りする必要があるということだ。

3.11後原子力政策が一層可及的速やかに解決すべき問題として論じられている。日本で今まで見聞きしてきた市民運動は兵器や発電所などの「製品としてのウラン」に目は向けても「原材料としてのウラン」には目を向けて来なかった。日本にウラン資源はほとんどないため上流の問題に目を向けられることはなく、ウランの流通過程の中で下流で生じる問題である発電所に関わるpublic acceptanceや核兵器への転用などが議論の中心だった。

放射性物質の不公正利用という大義名分の下で自国の原子力発電所の運用や核兵器への転用に反対する運動は、併せて放射性物質流通過程の上流での不公正についても改善を訴えた方が一貫性を持ち説得力が増す。なぜならその方が全ての核物質の不公正利用に反対しているという印象を聞き手に与えられるためだ。エネルギー政策の議論を行う際にも説得力を持った主張をするには、議論の参加者はこのような一貫性のある議論をする必要がある。


日本人もこの不公正に関与している

映画の中で、オーストラリアの産業大臣がウラン採掘地周辺の先住民に採掘許可を取り付ける説得の最中に、口実として日本とのウラン売買契約が既に結ばれていることを挙げている場面があった。

この場合の日本人のオーストラリア先住民に対する責任と義務について検討したい。

社会正義を巡る議論の中に「無過失責任」という概念がある。
通常の責任概念では、被害者が加害者を特定しその責任を立証する証拠を集める必要がある。しかし、加害者があまりにも多く、しかも加害者それぞれが責任を自覚していない営みの積み重ねによって、不公正による被害者が発生している場合がある。
被害者が加害者を特定し加害者の責任を立証する能力を持っていない場合、被害者は泣き寝入りせざるをえない場合が往々にしてある。しかし泣き寝入りさせて不公正を放置するわけにはいかない。
このような場合に無過失責任という概念を導入する必要性が生じる。

「無過失責任」とは、原因者(加害者ではなく)であることが明白である主体が、責任を有し補償の義務を負う考え方のことだ。先進国民は原子力を用いた電力の恩恵に与っているだけで、このような不正に関与する原因者となる。もちろん加えてウランの流通に携わる政官財の輸出国・輸入国双方の全ての関係者に責任があるのだ。
トマス・ポッゲによれば、先進国民は「不公正な体制に異議を唱えない」という不作為によって不正に関与している。
以上のような見解を踏まえると、ウランを購入しその恩恵に与っている限り日本人が、上流のウラン汚染に関わる問題の責任から逃れることは不可能だ。


予告編→http://www.youtube.com/watch?v=rWMYyb4IL9w
【参考】
押村高(2008)『国際正義の論理』講談社現代新書


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